ラーガ日記③:聞こえる前の音
昨日はBhimpalasiの個人練習。
誰にも信じてもらわなくてもいいのだけど、私には、Pandit Pran Nath大師匠と思われる存在からのコンタクトを精神的に感じる時がある。
とても優しくて懐が大きくて、明確で、無駄が無い印象の男性的な存在だ。
その存在が頭の中で練習に関してアドバイスをくれる。
昨日は、「自由に歌ってみなさい」だった。
まだラーガを歌い始めたばかりの右も左も分からない時は、先生から教えてもらったフレーズを何度もなぞることが主な練習だ。
しかし、昨日は、そのラーガの音階の中で自由に動いてみなさいという風に言われたように感じたので、歌ってみた。
やはり、納得のいくようにはいかない。
そして今日は、Bhairavの個人練習。
Bhairavは、朝のラーガ。
Pandit Pran Nath大師匠は、毎朝必ず、このラーガの練習をしていたらしい。
Spiritual Practice(精神的鍛錬)の為だったのだろう、とテリーさんは言っていた。
毎朝歌っていたのならさぞ素晴らしいのだろうなあと思い、録音はあるのか探してみたが見つからない。テリーさんに聞いてみると、やはり、朝から録音はしないとのこと。テリーさんも録音すれば良かったと言っていた。
最近よく練習をしていて思うことは、「無意識」であることの大切さだ。「エゴ」に注意すること。
人は無意識でも動くことができる。
本能と、エゴ。
エゴは、どちらかというとブレーキに近い印象がある。自分にとって都合の悪い方に行かない様にと制御する存在。根拠は主に記憶だ。経験を元に、というやつだ。そしてそれが必ずしも真理に沿っている訳では無く、むしろ真理とは程遠いことが良くあるのがエゴの厄介なところだろう。
要するに、エゴは身を守るには有難いが、音楽など自由に表現をしようという時には邪魔な存在でもある。司令塔は一つでいい。エゴが強いとスムーズに行かないのは確かだ。
前にも書いた通り、ラーガは、自分がそのラーガに成って歌うことで初めてラーガとなる。
つまり、自分の状態が音楽にダイレクトに反映されているのだ。それはどんな表現にも共通していることだが、ラーガの場合は、「宇宙を表現する」という発想であり、「自己表現」をするのでは無い。
ラーガでより洗練した表現をする為には、自分自身を注意深く見つめることも必要で、何を基準に動いているのか、何を軸にしているのか、精神的バランスから日々の生活にまで目を配る必要ばあるのだなと感じている。
音楽は本来、誰かの為に演奏するものではなく、自分と神(宇宙)の為にやるんだ
とテリーさんは前に言っていた。
ラーガを始めたことで、私も内観する機会が増えたし、方法や視点も変わってきた。
音楽はSpiritual Practiceの柱として優れているのかもしれない。
Bhariavの練習の後半で、また、自由に歌ってみよう、と思った。
すると、やはり、行きたいところに行けない。
練習とは、引っ掛かりを研磨するということ。
技を磨く、とは良く言ったものだ。英語でもpolishという言葉を使う。
共通の概念なのだと思う。
Pran Nath大師匠が「自由に歌ってみなさい」と伝えてくれたのも、自分でどこに引っかかりがあるのか、どこを磨くべきなのかを見つける方法をそっと教えてくれたのかもしれない。
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